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由緒・縁起

光厳寺は鎌倉時代に幕府の御家人大川戸氏の外護により正安二年(一三〇〇年)に直蔵司が開基しました。大河戸氏は、大川戸を本拠に今の久喜市から吉川市を治め、伊豆の三浦氏とも姻戚関係があった幕府の有力な御家人の一族でした。当時は大河戸氏の持仏堂でした。その後大川戸氏の衰亡とともに衰退しました。開創時の宗旨は不明ですが室町時代になって天文二年(一五三三年)に比企郡福田村成安寺から佛山祖直大和尚が来山し、曹洞宗に改宗し七堂伽藍五重塔を建立しました。慶長年間に洪水により七堂伽藍五重塔がことごとく押流され倒壊。この水害後、元禄八年(一六九五年)の絵図には、八十年経って本堂、僧堂、庫裡や山門、鐘楼など十棟の建物が建ち、復興した伽藍の様子が描かれています。この絵図の当時、光厳寺には二十名ほどの雲水が修行していました。享保年間に第七世の雲外薫龍大和尚は後に大本山永平寺の禅師となる二人の弟子、宝山湛海和尚と弥山良須和尚を育てました。享保十五年(一七三〇年)、光厳寺で宝山湛海大和尚が結制修行した時に弥山良須和尚は首座を務めました。宝山湛海大和尚は光厳寺の第九世となった時、高輪の泉岳寺、越生の龍穏寺を経て大本山永平寺の第四十五世大珍慧鏡禅師となられました。
 
 また弥山良須和尚は宝山湛海禅師の後を継ぎ、大本山永平寺の第四十六世真空妙有禅師となられました。その後二十二世一超透禅大和尚代の万延年間(一八六〇年)に火災により絵図にある伽藍をすべて焼失しました。二十二世は明治初年(一八六八年)に本堂を、明治四年に山門を再建。その後二十三世安室康全大和尚も伽藍の整備に尽くしました。この時の伽藍が昭和六十年(一九八五年)に本堂を解体するまでの伽藍です。
 
 老朽化により、本堂改築の途についた昭和六十年、請負業者の過失により仮本堂が焼失しました。このときそれまで大切に伝わってきた御本尊様薬師如来三尊像や御開山像、両祖像など仏像と旧本堂から移した仏具、荘厳具、備品など一切合切が焼失しました。爾来、二十六世松雲大中大和尚と小衲は鋭意復興に努めて参りました。仏具、備品一つ一つを揃えて参りました。既に四十年近く経ちます。その間、二十六世松雲大中大和尚は、平成六年に庫裡、平成八年に本堂を再建しました。その後小衲は、平成十一年に新墓地を造成、そして平成十六年に寺務所、平成十九年に車庫兼物置を建設しました。また、平成二十四年に京都市の仏師江里康慶師により造像された御本尊釈迦如来三尊像を勧請しました。その後も江里康慶師の手になる薬師如来像を平成二十九年に、そして達磨大師像と大権現修理菩薩像を令和四年に勧請しました。
 
 また、この度光厳寺開創七百年記念事業として鐘楼門建設を発願し、令和六年に落慶法要を営弁する予定です。
 

沿革

光厳寺に二枚の文書が伝わっている。どちらも文書に記載されている通り記すと六代雲峰が書いたものである。一は御検地奉行へ提出したものの副本であり二は元祿八年(一六九五) 当時の境内の絵図である。

この文書は、曹洞宗全書の寺誌部に「武蔵光厳寺由緒記」として載せられている。さてこの要点は次の通りである。前回の延宝二年の伊藤半十郎殿の御検地に境内地弐反参畝歩が先規に任じ寺中御除と御水帳の外書にあるので今回の御検地にも境内地を除いていただきたいという願書である。前半に 光厳寺の由緒が述べられているが、このいくつかの事項が貴重なのである。

 
列挙すれば、

一、正安二庚子歳(一三〇〇)に直蔵司が開基して[元祿八年(一六九五)までに三九六年たっていること]

二、その後中絶したこと。

三、天文二年(一五三三) に比企郡福田村(現滑川村)成安寺から仏山和尚がきて七堂伽藍五重塔を造立したこと。

四、雲峰は、開山である仏山から六代に当るが元祿八年で一六三年になること。

五、慶長年中に大水があってて堤防が押切れ伽藍などが悉く押流され池になり今でも池が残っていること。

六、寺の中にまだ大成石の佛塔跡、塔敷石、瓦などが残っていること。

七、寺脇の耕地の小字名を塔之下と云って御水帳にも載っていること

である。即ち、佛山から雲峰まで一六三年言い伝えられてきた事項が記録されたものと認めて置きたい。因に紀年を確めたところ計算違いはない。文書に記されているからそれがそのまゝ事実であるとする早のみこみは避けたいものである。これらの事項を真実をさぐり出すためのカギにしたい。

 現在の伽藍配置とちがっていることは勿論であるが特に注目したいことは

一、塔跡、五重塔の跡があること。

二、帰依佛塔が堤防上にあったこと。

三、洪水の後の池が残っていること。

四、水害後八十~九十年かけて、伽藍堂宇が整ってきたこと。

である。